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Mic Seja の「小型高性能車シリーズ」第49弾:日野コンテッサ1300

2025.12.6

Mic Seja の「小型高性能車シリーズ」第49弾:日野コンテッサ1300

<コンテッサ: 伯爵夫人>

“伯爵夫人”――イタリア語でコンテッサ。

日野自動車がその名を与えた小型車には、どこか上品で、当時の日本車には珍しい、香り立つような気配があった。

ルノー4CVのライセンス生産から始まり、国産化したコンテッサ900、そして日野の技術で「独自の仕上がり」へと到達したコンテッサ1300。

当時のファミリーカー――いわゆるBCクラス(ブルーバード/コロナ)はFR+リーフスプリングの固定軸が常識。

その中でコンテッサだけは RR+スイングアクスル+4輪独立懸架 という欧州的な構成。

妙に上品に見えたのも、なるほどとうなずける。

<気高い? ― いや“癖のある”伯爵夫人>

ただしこの“伯爵夫人”、気品だけでは済まない。

気位の高い貴婦人らしく、性格にはなかなか手強い癖があった。

尻軽:テールハッピー

雨の夜、40km/hほどで流していたときのこと。

前方で道路幅が急に狭まったので軽くブレーキを当てた瞬間――180度スピン

青ざめて現場を確認すると、車の全長ほどしかない幅。

どうやって回転したのか、いま思い出しても不思議だ。ボディが無傷だったのは幸運以外の何ものでもない。

リアエンジン+スイングアクスルは“一気に踊る”特性がある。

同じレイアウトの車には、似た逸話が数えきれないほど残っている。

  • VWビートル:アウトバーンでの急転舵 → スピン(「暮らしの手帳:ドイツ駐在記」)

  • ポルシェ356/911:「高速コーナーでは絶対にスロットルを戻すな」――使い手の憲法

  • 初期911:最初の150台ほどは直進安定性が悪く、前バンパー下に重りを付けていた(「カーグラフィック」誌に載ったポール・フレール試乗記)

  • コルベア:ネーダーの“危険車”キャンペーンでの米国国会公聴会でGMは、天下一のドライバーのスターリングモスに証言をさせ反証した

現象はこうだ。

テールが重い車にスイングアクスルを合わせると、スロットルOFFでリアの荷重が抜け持ち上がる、“キャンバーが一気にポジ側へ跳ね、スピンに入る”――いわゆるジャッキアップ現象に陥る。

写真はポルシェ356のイラスト

勝手ステアリング

リバースに入れ後退すると、ハンドルが勝手に切れていく。

こちらは何もしていないのに、ステアリングだけが気ままに進む。

これはテールハッピー対策として、キャスター角を大きく取ったジオメトリーの“副作用”。

後退ではそのキャスターが裏目に出て、切った途端に“切れ増し”が起こるらしい。

気ままブレーキ:後退では効かないブレーキ

コンテッサ1300標準車は デュオ・サーボ式ドラムブレーキ を採用。

前進:サーボ効果で強烈に効く

後退:サーボが働かず、ほとんど効かない

つまり、前進ブレーキのつもりで危機が極端に悪く踏むと大慌て――
これもまた“侯爵夫人”らしい気まぐれだった。

④気ままブレーキ:片効きが当たり前のドラムブレーキ

ディスク全盛の現代では信じられないかもしれないが、コンテッサに限らずドラムブレーキは「片効き」が当たり前だった。

ドライバーはブレーキと同時に「当て舵」で進路を補正する。当時のドライバーには当たり前の技!でした。

前記の180度スピンにも加担していたのではないかしら?

 

<コンテッサ1300 セダン>

デザインはミケロッティ作と公表されている。

箱型が主流だった当時の日本で、この洒落た造形はひときわ異彩を放った。

グリルレスのフロントは、ラジエターを後方に積んだレイアウトゆえだが、いま見るとまるで現代EVの先取りのようでもある。

前トランクとリアエンジン室を見比べると、“テールヘビー”がよく分かる。

<コンテッサ1300 クーペ S>

セダンを基に、同じくミケロッティが手がけたクーペ。

S仕様はツインキャブ、前ディスク、フロアシフト、バケットシートという当時の“スポーティ黄金律”を備えていた。

<スプリントモデル>

コンテッサ900をミケロッティが磨き上げた“900スプリント”。

筆者が世界で最も“カッコいい”と惚れ込んでいる一台である。

<コンテッサ1300 スプリント・プロトタイプ>

900スプリントの流れを受け、1300にもスプリント計画が存在した。

フランスの名チューナー、ゴルディーニがDOHCヘッドを試作し、

パイプバックボーン+FRPボディのプロトタイプまで製作されたという。

だが、T社との関係で日野が商用車専業へ転じたため、計画は中止されたとのこと。

もし実現していれば――

和製A110が日野から生まれていたかもしれない。

<サムライ・レーシング>

筆者の世代にとって「コンテッサのレーシング」といえば、

ピート・ブルック率いるサムライ・レーシングを思い出さずにはいられない。

<考察>

戦後の自動車工業振興の政府の施策として、欧米先進自動車会社との提携が推進され、いすゞ:ヒルマン・日産:オースチン・日野:ルノーがライセンス生産を担ったが、その中でも日野の採った“ルノー”は明らかに異彩を放っていた。

その個性がようやく花開きつつあった矢先、T社との関係から日野は商用車専門へ転進。

コンテッサの道は、そこで静かに閉じられた。

もし、あと数年だけ続いていたら――

日本のスポーツカー史は、いまとはまったく違う姿になっていたかもしれない。

 <本稿完>